「道のり」を楽しむ世界

TT

好きに生きる人生でいいと思う。
その場、その場で、考えたらいいと思う。
その時、その時に、やりたいことをしていたらいいと思う。

大人になったいま、私はそうはっきりと、強く思う。

30年以上生きてきて、もし学生だった頃の自分に何かアドバイスできるとしたら、何を伝えたいだろう。あの頃、私が抱いた将来に対する漠然とした、でもものすごく強烈な不安や焦りや恐怖……
でもそれは全部、幻想だったのだと声を大にして伝えたくなる。

自分は何がしたいのか、何が好きなのか分からないのに、いますぐに何かひとつの道を決めなければいけないのだという空気に飲まれるしかなかったあの頃。そういう外側からの容赦ないプレッシャー。ただただ「上」を目指し続けることしか知らなくて、ただただツラくて苦しくて、右往左往するばかりだった日々。

でも、それでも、未来の自分は明るいのだと。笑っているのだと。
それを伝えたくなる。
なぜなら、怖がらせられていただけだったから。
未来を。
生きることを。
社会に出ることを。
自分の足で自分の人生を歩くことを。

学校という、ものすごく閉鎖された小さな檻の中から出て社会に出れば、すぐに分かる。学校で教えられてきたような小さな価値観なんかに収まりきらないような、色んな個性の持ち主が、自分なりに自分の人生を歩いていることを知る。ひとつの生き方とか価値観なんかに縛られていない。大人の方がよっぽど自由に生きているのだと。学校の中こそが何か軍隊のような、ものすごく統制された場所だったのだということを知る。これでもかと恐怖ばかりが植え付けられてきた場所だったのだということを知る。

最初から、幻想だったのだ。
将来に対する不安も焦りも恐怖も。
ある意味一番のピークが、学生の頃なのかもしれない。
いちばん怖がらせられるから。その時期に。大人たちから、これでもかと。
自分たちはおもいっきり羽を伸ばして遊んでいるのに。
子どもには全然違うことを教えているのだった。
未来を怖がらせることしか、大人たちは教えないのだった。

だから声を大にして言いたくなる。
何も怖くないと。
未来は明るいのだと。
学校の外には、ものすごく自由な世界が広がっているのだと。
感動すると思う。そのあまりのギャップに。

学校じゃなく、社会に出る。
そうすれば、自分の足で、自分の人生を歩くことができる。
すべてを自分で決めることができる。
どんな人生だって歩くことができる。
だって、自分の人生なのだから。
これまでずっと誰かから、ああしろ、こうしろと口を挟まれること自体が、おかしなことだったんだ。

いつまでも保育園の続きのような学校にいるのではなく、社会に出る。
そうすれば、人生を自分の手に取り戻すことができる。
自分の決断次第で、どこへだって行ける。
誰にも何の許可もいらない。
どんな現実だって創れる。
自分で自由に決めていい。好きに決めていい。
それができる場所がある。

・・・

私たちはいつも何かしら考えていると思う。
必ず、どこかへ意識を向けている。
その意識を向ける先は、「未来」とか「将来」じゃなくていいのだと思う。
未来とか将来に意識を向けたって、想起されることは同じことばかりだと思うから。
不安とか焦りとか恐怖とか。そういうものしか出てこないように、刷り込まれてしまっているのだった。私たちは。
そして、そこへ意識を向けたって、出てくる答えは自分の本心じゃないことが多いと思う。
この社会で刷り込まれた「こうあるべき」を、ただ漠然と想起しているだけのことが多いと思う。自分が本当にやりたいこととか、本当に望んでいることじゃないことが多いと思う。

逆だと思う。
意識を向けるのは、未来でも将来でもなく、「いま、この瞬間」だと思う。
いまこの瞬間を、生きる。感じる。味わう。
いまこの瞬間の自分自身にフォーカスする。
いまこの瞬間、自分が感じていること、考えていること、思っていること……
それを見る。それをちゃんと認めてあげる。
こんなこと思っているんだねって。
こういうこと感じているんだねって。
この視点を、私たちは一切教えられない。
むしろ、感じるなと教えられる。
自分が感じたことを我慢しろとしか、この社会では教えられない。

全部、逆だと思う。
たくさん感じるのだった。とことん感じてみるのだった。いまこの瞬間を。
「いま」をしっかり感じるから、「次」が出てくるのだった。
その「次」を実際に歩くから、また「次」が出てくるのだった。
人生とは、その連続をいうのだった。

その時、その時の、自分をしっかり感じ切ることで、次の道が見えてくるのだった。
あっ、次はあそこに行きたいって。次はあれがやりたいって。
その連続でいいのだった。それでいいのだった。

だから、その場、その場で、考えたらいいのだと。
その時、その時に、やりたいことをすればいいのだと。
最初から、何かひとつに決め打ちしようとするのではなく。
最初に決めた道を、一生歩き続けなければいけないと思うのではなく。
その時、その時の、自分の気持ちを大切にする。
その場、その場を、臨機応変に生きる。
それがいいのだった。

冷静に考えてみて、そりゃそうだと思ってしまう。
その場、その場で、考えるしかないでしょって。
というか、その場その場で考えることが、思考を放棄しないことが、その時の自分の気持ちに素直になることが、自分の人生を自分のものにする唯一の方法なんじゃないのと思ってしまう。それを忘れて、その場に居続けるという一番簡単な選択をしてしまうから、ツラくて苦しくて仕方なくなっていくのだと。

だからこそ、自分が本当にやりたいことに早く気づきたい……
本当にやりたいこと。
それは、少しずつ見えてくるものだと思う。
最初から、これだったんだって分かるものではないと思う。
というか、それを発見することも、私たちは楽しみのひとつとしている。
自分が本当にやりたかったことに気づく。
その道のりを、その過程を、私たちは楽しみたいと思っている。
だから、敢えて忘れてくるのだった。
自分が何をしたくてここへ来たのかを。
でもちゃんと思い出していけるよう、ちゃんとそこへ向かっていけるよう、必ずヒントを置いている。自分で自分にヒントを用意している。たくさん。行く先々で。

だからこそ、最初から心配なんていらなかったのだ。
その始めから、何か焦ることではなかったのだ。
だって、自分が向かうべき場所へちゃんと向かって行けるよう、たくさんのヒントを自分自身に用意しているのだから。あらかじめ。
だからこそ、自分が感じたものを大切にして、感じたことを道しるべに、ゆったりと楽しんで歩いていると、少しずつ見えてくるのだった。自分が本当にやりたかったことが。
最初から、そんなすぐに分かるものではなかった。ましてや、10代のうちで。
それは大人たちが一番分かっているはず。
それなのに大人たちは平気で口にする。簡単に口にしてしまう。
「将来の夢は何なの?」って。
「将来の夢は決まったの?」って。
もしそんなに早く分かってしまったら、そんなにすぐに、自分が何をしたくてここへきたのか分かってしまって、そしてたちまちそれを叶えてしまったら全然面白くないのだと思う。だって、もうゴールってことになってしまう。途中の道のりのたくさんのドラマをすっ飛ばして、何の味わいも感動もなくスタートした途端にゴールしていたのでは、何のためにわざわざこうして身体を持って生まれてきたのだろうってことになる。
だってここは、道のりを楽しみ世界だった。過程を楽しむ世界だった。

私たちは体験するために、ここへ来た。
自分を表現するために、ここへ来た。
それを楽しみにして、ここへきた。

だから、色んなことに興味を持つのだった。
いろんな所に行きたくなるのだった。
その自分の気持ちに、素直になればいいだけだった。

世間の常識とか関係ない。
年齢とか関係ない。
周りの目とか関係ない。
自分が気にしているだけ。
興味のあることを、やってみたいことを、もういいかなと思うまで、やっていたらいいのだった。自分が納得できるまで。満足できるまで。満たされるまで。
そして、あっさりと離れたらいいと思う。もういいかなと思ったら。

そうやって、ふと気づけば、やっているのだと思う。
自分が本当にやりたかったことを。

コメント

※記事へのコメントは承認後に公開されます。
※ハンドルネームとメールアドレスの入力は任意です。

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUT ME
TT
TT
好きなことは、妄想(考えること)と文章を書くこと。

空気の匂いを感じること。

ひとりの時間をこよなく愛する男の子。
記事URLをコピーしました