おやつ
「どこか行きたいな……」
「どこか行かないの?」
「今日はどこも行かないの?」
小さい頃、よく口にした言葉……
休日になるたび、両親にせがんだ。
どこか連れてってと。
公園に連れて行ってくれた。
いろんな公園に連れて行ってくれた。
でも、あの頃の記憶を辿るとき、いつも思い返されるのは、何かもの寂しい気持ちだった。
どうしてだろう?
本当はどこへ行きたかったのだろう?
大人になったいま、私がどこかへ出かけたくなるときは、決まって何か食べたいとき。何か外で買いたくなる……特に心身が疲れている時は。
私にとっての癒しというか毎日の楽しみというかモチベーションというか、それはどうも食べることらしかった。
夏は圧倒的にぜんざい。そしてクッキーかな。
冬はどうなんだろう……ここでもぜんざいとクッキーかな。
とにかく何か、おやつ的なものが食べたくなるし、好きなのだった。
小さい頃、よく思ったこと。
「どこか行きたいな」
でも、そのこころは多分、「何か食べたい」だったんじゃないだろうか……
母親があまりいい顔をしなかったものを。
家の中にはなかったものを。
私は甘いものが大好きだった。小さい頃から。気づいた頃には。
でも自分が食べたいものは母親がイヤな顔をしたから、また?みたいな顔をしたから、「どこか行きたいな」としか言えなかったのかな。お出かけということになれば、そうなれば、途中で何か買う流れになることが多いから。だからしょっちゅう、待ち望んだのだと思う。お出かけを。
大人になったいま、私はいつでも好きなものを食べる自由を手にしている。
自分の人生を振り返るとき、子ども時代というのは、なんだかすごく不自由な時代だったとふと思う。だって、自分が食べたいものを食べるという基本的な自由さえ、相手の顔色をうかがうのだから。
私は、大人も子どもも変わらないと思っている。
大人が思うことは子どもも思っていると思う。
大人以上に敏感に。
そして大人以上に素直に、それを求めると思う。求めることができるのだと思う。
自分のこころに素直だからこそ。敏感だからこそ。
でもそれが制限され続けたとき、どうなるだろう。
表現は次第に屈折していくのだろう……私がまさにそうやったように。
そうしていつしか、本当の望みが何だったのかさえ、分からなくなっていってしまうのだろう。
あらゆる方向で。
だって自分に素直でいることは悪いことなのだと教えられるのだから。
この社会は。
幼い頃から。
たかがお菓子と言えるのだろうか……
自分の「好き」を追求できる自由。
それが、人生の醍醐味だと、私は思う。
だって、私はいま、しょっちゅうお菓子作りをしている。
しょっちゅう、おやつを作っている。
市販のものを買って食べるだけじゃ満足できなくて、自らの手で作っている。
やっぱり、ずっと好きだったんだ……
大人になったいまでも。
やっぱり、そこへつながっていたんだ……
自ら作り出す方向へ。その楽しみへ。

