「競争」から生まれるもの

TT

若い頃は、本当に暴力ばかりだった。
学校から家に帰れば、弟と取っ組み合いのケンカばかりした。
なにかにつけ物理的な力を使った。

年齢を重ねるにつれ、弟はどんどん大きくなり、さすがに物理的な力が使えなくなると、今度は押し付けが始まった。いろんなことに口出しした。自分のやり方や考え方、価値観が正解であり常識なのだと、上からものを言った。いつも上から目線だった。家族みんなに対して。

家の中というか、身近な人たちにはこんな感じをやり続けた。
じゃあ、外では?

マウントを取ってばかりだった。
競争に明け暮れた。比較に明け暮れた。
少しでも人より上手くできること。上手にできること。誰かに褒められること。
そうやって優越感を得ることで、どうにか自分を保っていた。
だって楽だった。
自分が何がしたいのか分からない……何が好きなのか分からない……夢中になれることが何もない……そんな人間が向かう先。
それが「競争する世界」だった。
そこにいれば、自分と本気で向き合わなくて済んだ。自分が本当は何を望んでいるのか、真剣に考えなくて済んだ。
競争に夢中になってさえいれば。
それが楽だったのだ。
だって、明確な目標が目の前に示される。やるべきことがはっきりと示される。誰かがすべてを示してくれる。あそこを目指すのだと。その次はあそこなのだと。すべて用意される。すべて与えられる。だから何も考えなくて済む。ただただそこにいて、言われるがまま競争に夢中になっているだけでいいのだった。

その世界にいれば安心できた。
何かに夢中になっている自分を、周囲にも、そして自分にも見せることができる。
自分は将来に向けて、こんなに一生懸命なのだと。怠けてなんかいないのだと。
「こんなにも必死になって努力している自分」がいる。
「超難関を、スゴイ所を目指している自分」がいる。
だから、何がしたいのか分からない人間ではないのだと。
何が好きなのか分からない人間ではないのだと。
何も夢中になれることがない人間ではないのだと。
それどころか、立派な人間になる道を、いま自分は歩いているのだと。
そう思うことができるのだった。
そうやって、どこまでもイヤなことをやり続けるのだった。
好きでもないことをいつまでも我慢してやり続けるのだった。
将来後悔しないために、いま死ぬ気で頑張らなければいけないのだと、自らに言い聞かせて。
好きなことじゃないから、必死になるし、ムキになる。
好きじゃないから、根性とか忍耐とか、粘り強さとか継続力とか、そういう言葉が必要になるのだった。この苦しくてしょうがない場所から、自分が逃げて行ってしまわないよう、自らその鎖を強化するのだった。

「競争の世界」とは、そういう世界だった。
強烈な優越感と、強烈な劣等感を味わうことができる世界。
刺激的でスリル満点で、半端ない緊張感と緊迫感を味わうことができる世界。
とことん必死になって、とことん必死にさせられて、これでもかと感情を、怒りを、フラストレーションを爆発させることができる世界。
自分が劣っていると思う人間を見下し、従わせ、自分がすごいと思う人間には羨望の眼差しを向け、強烈な劣等感を抱き、その存在と同じになろうとする。同化しようとする。
バカにされたくない。こんなこともできないの?と思われたくない。こんなことも分からないの?と思われたくない。誰かに何かを指摘される恐怖。屈辱を味わわせられる恐怖。うわさの対象にされる恐怖。自分の評価が周りに広がっていく恐怖。その恐怖心ゆえに、自分を守るため、すべてを完璧にこなさなければいけないのだと思い込む。あらゆることができる人間にならなければいけないのだと勝手に思い込む。せめてそこへ、そこへ向かって努力してますアピールをしなければ、この社会で生きていけなくなる……そんな脅迫観念から、自分の苦手を克服するために必死の形相になっていく。
人には必ず、「得意・不得意」があるのだということを知らない。
人には必ず、「好き・嫌い」があるのだということを知らない。
すべて好きになって、すべて得意にならなければいけないのだと思わされ、思い込む世界。色んな価値観や考え方、ものの見方があるのだということを知らない。
競争こそがすべて。
人にバカにされないことがすべて。
屈辱を味わわないことがすべて。
何でも完璧に出来ることがすべて。
世の中で素晴らしいと賞賛されている所へ行くことがすべて。
そこに向かう努力をしていない人間はすべて怠惰。怠け者。色んなことを教えてあげた方がいい存在。

それが「競争の世界」だった。
それが、「すべてを他人と比較する世界」だった。

自分が夢中になれることが分からない人間が、とにかくなにか「生きている実感」を得たくて飛び込んでいく。「命を燃やせる何か」を求めて安易に飛び込んでいく。安心したくて。夢中になれるものが自分にはあるのだと、あったのだと思いたくて。

そんな世界に、私はどっぷりとはまって生きていた。
22年間も学校という、「競争」しか教えない場所に居続けたのだから。
そしてそこを離れた後も、自分の何かを指摘される恐怖に怯え、すべてを完璧にこなさなければいけないのだと必死の形相で仕事を覚えてきたのだから。仕事が出来ない人間は終わってるみたいな、あの人は怠けているだとか頑張っているだとか、仕事が遅いだとか早いだとか、雑だとか丁寧だとか、いろんなことが「比較」される場所で生きてきたのだから。

どれだけ異常な世界で生きてきたのかと、絶句する思いがする。
みんなボロボロなのに、弱音を吐きたくて仕方ないのに、いますぐにすべてを床に叩きつけてそこから出て行ってしまいたいのに、自分は大丈夫なふりして、おすましを決め込む世界。

そんなことを続けている限り、死ぬまで心が満たされることはないのだろう。自分は死ぬのだと、人生がもうここで終わるのだと、そうなった時になってはじめて、もっと自分に素直に生きればよかったと思うことになるのだろう。もっと自由に生きたかったと。自分にはもっとやりたいことがあったのだと。そうなることは、もう目に見えている。

「競争」なんかしなくていい。
「誰かと何かを比較する」なんかしなくていい。
「自分の苦手を克服する人生」なんか、しなくていい。
自分が嫌いなことを、イヤなことを、我慢してやり続ける人生なんかしなくていい。
必死にさせられる場所になんかいなくていい。

だって、楽しくないから。
死にたくなるだけだった。
劣等感に包まれ、自分という存在が、ものすごく小さく感じていくだけだった。自分のことが嫌いになるだけだった。心も身体もボロボロになって、いますぐに消えてなくなりたいと思うだけだった。
それを私は、身を持って経験した。

「競争」からは何も生まれない。
競争が成長を促す的な、競争が新しいサービスを生み出す的な、競争が人類の進化をもたらした的な、そんなことを目にしたりするけど、本気で言ってるの?と思ってしまう。
「競争が、すべてを重く苦しいものにさせる」が事実だろう。

この社会が証明している。
この「競争好き」の社会が、それを証明してくれている。

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好きなことは、妄想(考えること)と文章を書くこと。

空気の匂いを感じること。

ひとりの時間をこよなく愛する男の子。
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